2009年8月20日木曜日

インクナブラ

インクナブラ(incunabula)は揺籃期本などと訳される。はっきりした定義があり,西暦1500年までに活版印刷によって作られた印刷物を指す。グーテンベルク以降,半世紀ちょっとの期間に,タイトル数にして約 26000 のインクナブラが作られた。1500 年という年に印刷技術的あるいは印刷文化的な意味があるはずはなく,世紀の変わり目をもって区切ろうということだろう。

で,その仮名表記なのだが,なぜかインキュナブラと書かれることが圧倒的に多い。incunabula はもともとラテン語で,ドイツ語の Wiegendrück を訳したものという。ラテン語読みするならインクナブラだし(長母音に音引きを当てるならインクーナーブラか? ラテン語はよく分からない),英語読みならインキュナビュラが近いのではないか。インキュナブラと書くと,なんだか英語とラテン語のちゃんぽんのような気がする。しかし,国会図書館のサイトをはじめ,専門家でもインキュナブラと書く人が多いのはなぜだろう?

「インキュナブラ」の表記に引きずられたせいか,英語の綴りを incunabla(u が抜けている)としている文献をときどき目にする。日本印刷学会編『印刷事典 第五版』がそうだ。

インクナブラについて知るには,国立国会図書館の「インキュナブラ西洋活版術の黎明」が役に立ちそう。

2009年1月5日月曜日

「零葉」

稀覯書(きこうしょ;めったに見られない書物)は一冊の本として存在しているとは限らない。ページがばらばらにされて紙一枚の状態で流通していることがある。

こういうのを「零葉(れいよう)」というのだそうだ。以前,丸善でヨーロッパの写本の展示をやっていたのを見に行って,そういう言葉を知った。書物の裏表 2 ページのことを英語で leaf(葉)というから「葉」はいいとして,なぜ「零」なのか。「単葉」なら分かるが「零葉」とはいかにも分かりにくい。しかし,書誌学用語として完全に定着しているそうだ。

以前から検索エンジンで引いたりしたが,よく分からなかった。しかし今回改めて検索してみて,明治大学図書館所蔵「木版挿絵入西洋 初期印刷本零葉コレクション」という PDF 文書を見つけた。これに「零葉」の説明があった。紙一枚のものだけでなく,欠けが大きくて不完全に残っている書物も「零葉」と呼ぶのだそうだ。漢字の「零」はもともとは「はした」というような意味があるという。漢和辞典を引くと,「零」はもともと雨のしずくで,そこから「落ちぶれる」とか「わずか」といった意味が派生したようだ。「零細企業」の「零」だね。「零葉」の「零」はゼロじゃなかったのだ。

分数計算の意味

高校生か中学生の頃,居酒屋のようなところにいたら(ちなみに私は飲んではいない),隣のテーブルで酔っぱらいおじさんが言っていた。

分数足す分数ちゅうのは分かる。しかし,分数を分数で割るというのが,わしゃあ分からん。

なるほど。「じゃあ分数掛ける分数は分かるの?」と突っ込みたかったが黙っておいた。おじさんの疑問は「分数割る分数」の計算に何か意味があるのか,という点にあったのだろう。分数は乗算も除算も同じくらい意味を見出すのが難しいと思うが,とくに除算が難しいような気がするのは,「上下をひっくり返して分子分母を掛ける」という奇抜な計算規則のせいではないだろうか。計算規則で言うなら,乗除算よりも加減算のほうが遥かに複雑怪奇なのだが,加減算ということ自体の意味は取りやすいので分かった気になるのだろう。

私は,誰にでも納得のいく説明ができるほど根底的に分数計算の意味が分かっているという自信が無い。分数の除算は,たとえば

あんパンが二つ半あって(きっと,最初は三つあったのを誰かが半個食べたのだろう),いまから一人に半個ずつ配ったらちょうど五人が食べられる。

といったようにして一応は説明がつくはずだが,果たして件のおじさんは納得してくれるかどうか。

分数に限らないが,計算の意味が分かったような気になっているのは,少数の具体例でイメージを摑み,あとは計算規則を覚えて正しく運用できているだけのことだ。しかし最初から計算の意味を根底的に理解しようなどと企てると,ちっとも先に進めないことになる。私のような凡人はね。解析力学で出てくるような汎関数の計算とか,何をやってるのかさっぱり分からず,結局理解できずじまいだ。

意味がぼんやりとしか分からなくても,計算に慣れてしまえば,分数という数の表現方法から,有理数という数そのものの世界へ入ってゆけて,視界が広がるんだけどね。

2008年12月27日土曜日

ブログ名の由来

ブログ名の「道聴歩録(どうちょうぶろぐ)」は「道聴塗説(どうちょうとせつ)」という言葉から取った。

ブログ名を何にしようか考え,自分の名前の一字「道」の付く言葉を漢和辞典や国語辞典,中国語辞典で調べていて「道聴塗説」に行き当たった。中国語(簡体字)なら「道听途说」と書く。これは「そのへんで聞きかじった話を知ったかぶって話す」というような意味だそうだ。転じて,「身についていない浅はかな受け売りの学問」をも指す。日本語の方は「塗る」という字を書くが,「途」と同じく「みち」のこと。

この言葉を見つけて,あ!と思った。私は以前から,仕入れたばかりの知識をひけらかす癖がある。知ったばかりのことは人に話したくて仕方がない。身についていないから不正確なことも言ってしまう。気を付けねばと思ってもなかなか直らない。道聴塗説は私にぴったりの言葉だ。そこで,これをブログ名に使うことにした。なお,「ブログ」に「歩録」の字をあてるのは,自分で思いついたのだが,すでに多くの人がやっていた。

ブログの記事そのものは,そのへんで聞いたことをそのまんま書いているわけではないが,書いている者が道聴塗説な奴だ,というふうに理解してほしい。

2008年12月25日木曜日

マンガ好きと漢字の読み間違い

2008 年の秋,ときの首相が答弁でしばしば漢字を間違って読むことが話題になった。マンガ好きで知られる首相なので,「マンガばかり読んでいるから(本を読まないから)漢字を覚えないのだ」との批判もなされた。果たしてそう言えるのか?

どういう間違いをしているのか見てみよう。「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」,「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」,「有無(うむ)」を「ゆうむ」といった具合。

私も漢字力が乏しいので,このことを批判する資格はない。とても恥ずかしいが,私が長らく間違って覚えていた漢字語の読みを挙げてみる。「珠玉(しゅぎょく)」を「しゅだま」,「高騰(こうとう)」を「こうふつ」,「贋作(がんさく)」を「にせさく」,「造詣(ぞうけい)」を「ぞうし」,「破綻(はたん)」を「はじょう」(破綻は件の首相も間違えたようだ)などなど。この例の中で,「高騰」の間違いは明らかに「沸騰(ふっとう)」の影響だ。

話を元に戻す。マンガばかり読んで本を読まないとこういう間違いをしがちになるのだろうか? 必ずしもそうとは言えまい。上に挙げた例はいずれも読み方を間違ったものだ。字面と意味はどうにか正しく認識しているように見える。

マンガにはルビが積極的に振ってあるので,むしろ正しい読みを覚えるという効果が無くもない。一方,教養主義者が好んで読むような本は,上に挙げたような常識的な言葉はルビを振らないので,《字面と文脈からなんとなく意味は分かり,何度も読んでいるうちになじんでしまうが,間違って覚えた読みが脳に固定される》という事態が起りやすい。初めて見た言葉の読みを,きちんと考えて推測し,分からなければ辞書で確認する,という習慣のある人は,読書を重ねることで言葉を正しい読みとともに覚えるだろう。しかし,漢字語というものは正しい読みが分からなくてもなんとなく読めてしまう魔物なのだ。

教養主義の文脈で語られることのある,ある首相経験者が,在任中の答弁で「大規模」のことを「おおきぼ」と読んでいたことを思い出す。

もっとも,「ふしゅう」の首相の間違いどころは,「頻繁」と言うべきところで「はんざつ」と言うなど,読みの間違いにとどまらないようだ。悲しいのは,マスコミで騒がれるまで誰も指摘してくれなかったことではないか(聞く耳を持たなかったのかもしれないが)。まさに裸の王様だ。大学教授でも,初歩的な英単語の綴りを間違って覚えたまま英語論文を書き続けていることがある。大先生になってしまうと誰も間違いを教えてくれなくなるからだろう。

2008年12月15日月曜日

科学の本の質

「科学の本質」じゃなくて,科学の書籍のクオリティーの話ね。

学生の頃,定年も近くなった指導教官が遠い目でこう仰ったのを今でも覚えている。

ボクらの年代以降の人は・・・本をまじめに書かなくなったから・・・君たちは,ある意味・・・不幸だ。

果たして著者の年代でそう割り切れるものかどうかは分からないが,昔,本当にまじめに本を書いてくれる先生方がいたこと,そして現在,あまりまじめに本を書かない先生方が少なくないことは確かだ。長い間,科学の本から遠ざかっているので最近のことは分からないが,学生時代の記憶を辿ってみる。

書店の数学のコーナーに行くと,線形代数と微分積分の本がたくさんある。なぜたくさんあるかは分かりきっているから書かない。これらのうち,既存のものを越えようと志した本がどれほどあるのか。

まじめな本づくりで私も評価しているある著名出版社から「基礎なんとかシリーズ」なんていうのが出る。執筆陣も豪華。意気込んだ企画におお!と思い,興味のある巻を何千円も出して買う。読んでも分からない。頭が悪いせいだとがっかりする。何度か挑戦するがやっぱりよく分からない。何年も経って,その本を理解する素地が整ってくると,頭のせいだけではなかったことが見えてくる。著者に書く力が無いのだ。そしておそらくは片手間に書いている。

良い本に出会った人の中から良い本を書く人が現れる。良い本に出会えなかった人が良い本を書くのは難しい。いま良い本を作って世に出すことは,次の次の世代のためにとても大切なことなのだ。


2008年12月14日日曜日

数学と物理の言葉の違い

数学と物理で,慣習的に同じ概念を違う言葉で表すことがある。

例えば,線型空間 V の任意の元が,V の部分集合 {vi} の元の線型結合で表せるとき,数学では「{vi} は V の生成系である」などというが,物理学者はしばしば「{vi} は完備である」などという。「完備」は complete の訳語だろう。「完全系」などともいう。

これが齟齬を来すこともある。

学生の頃,量子力学関係の何かの集中講義に数学科の学生が二人潜っていた。教師が「○○は完備です」というと,彼らは解析や位相でいうところの完備(こちらも complete)と誤解し,どう考えても完備じゃないので,間違ったことを言ったと思ってツッコミを入れていた。私はフォローしようとしたが,それを先生は遮り,両者に誤解だけが残った。